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ブランド買取のOKURA(おお蔵)トップ コラム ドイツの名門、ランゲ&ゾーネ(A.LANGE&SOHNE)という時計①
ドイツの名門、ランゲ&ゾーネ(A.LANGE&SOHNE)という時計①
2022年07月04日

時計ブランドの中には、世界3大時計と呼ばれるブランドがあることは広く知れ渡っているかと思います。品質、技術力、伝統と格式、ブランドバリューといった事柄から選出された時計は、全世界の時計ファンにとっては憧れの存在かと思います。

ですが、昨今は更に2つのブランドが加わった世界五大時計というカテゴリーもかなり浸透しております。
時計業界は空前の大ブーム。リバイバル需要も相まって新旧問わず時計は評価されており、全ての時計が今や世界中で愛されております。

かくいう私も、遅咲きながら時計の魅力に染まったことがきっかけで今のお仕事をさせて頂いております。
知れば知るほどに、見れば見るほどに、触れば触るほどに、時計というのは本当に素晴らしい存在だと感じます。機械が織りなす芸術品だと思っております。

そんな私が最も好きなブランドが、以前コラムでもご紹介しました【ウブロ(HUBLOT)】です。デザイン性もさることながら、内部機構のカッコよさやカラースタイルも見栄えが最高で、今一番欲しい時計です。

ですが、私には実はもう2つ、好きなブランドがあります。
そのブランドは、この仕事について初めて配属された店舗で扱っておりましたが、最初は名前だけ憶えて詳しいことは知りませんでした。
ですが、その後すぐに別の店舗に配属された折に、そのブランドのとあるモデルを見た瞬間、運命の異性に出会ったかのような衝撃を受け、一瞬にして心奪われてしまいました。

その1つ目が、ヴァシュロン・コンスタンタン(VACHERON CONSTANTIN)の、オーヴァーシーズ。
そして2つ目が、ランゲ&ゾーネ(A.LANGE&SOHNE)の、ランゲ1でした。

ヴァシュロンは世界三大時計に、ランゲは世界五大時計に数えられる名門中の名門です。
両ブランドとも、上記に掲げた事柄の全てが当てはまる、間違いなく最高峰に位置するブランドです。

今回は、世界五大時計の1つであるランゲ&ゾーネにスポットを当てたコラムを投稿いたしました。
近日中にもう一つの名門、ヴァシュロンも投稿したいと思います。
早速行ってみましょう!!!

 


①ランゲ&ゾーネ設立までの歩み

(画像引用:ブティックHP

ランゲ&ゾーネは、創業者であるフェルディナント・アドルフ・ランゲ氏が1845年、ドイツはグラスヒュッテに工房を構えたことから始まりました。

アドルフ・ランゲ氏は、非常に過酷な幼少期を過ごしていたそうです。
幼いころに両親が離婚してしまった関係で、知り合いの商人のもとに引き取られることになりました。実父は元兵士ということもあり、兵士として過ごしたことが影響して一般的な生活を送ることが出来ず、ランゲ氏は過度に厳しい生活を送っていました。
そんな折に商人に引き取られたことで生活は一転。引き取り先である育ての親は、ランゲ氏を思って今では当たり前のことですが、当時初めて設立した国民学校(現代でいう小学校)に通い、その後はドレスデン技術学校というところへ通わせてもらえるようになりました。
ランゲ氏はそこで当時の最先端でハイレベルな時計の知識を身に着けていき、本来ならば大学での専門教育を受けた技術者や技師のような、レベルの高い教育を受けるまでに成長しました。

学校での授業の傍ら、ランゲ氏は実用性のある知識が必要であると考え、学校からの許可を得て、1830年に時計の見習い技師としてスタートすることになり、とある時計技師を師事することになりました。
この時、師事していた方こそが、後に優れた宮廷時計師としてその名を遺した、ヨハン・フリードリヒ・グートケス氏でした。彼はなんと、ランゲ氏の友人の父親だったのです。
この時、ランゲ氏はまだ15歳という若さでした。

15歳で時計の専門知識に触れていったランゲ氏。その後も学校とゲートケス氏の時計屋さんでの勉強を両立し、1835年に当時のフランス時計学の中心であったパリへ飛び、精度の高さとクロノメーターの構造を学びました。
パリの後にはスイスやイギリスに渡り、更なる時計製造の手法を学ぶと、それらのことを自身の手帳に残していきました。こうした経験から、時計製造には精密な測定器具を駆使して合理的で緻密な製造方法を採用するべきであると結論をつけ、長い旅を終えてドイツへ帰国しました。

ランゲ氏が帰国した当時、慣れ親しんだ町は貧困に陥っており、国が復興のための町おこしを企画。アイデアを募っていたところ、ランゲ氏は旅で学んだ知識と技術を用いた時計製造業を主体とした町の復興を提案。見事採用されたことで多額の融資と15人の従業員を迎え入れ、グラスヒュッテに移住すると共に工房【A.ランゲ・ドレスデン】を設立。
1845年、ランゲ&ゾーネの歴史がここから始まりました。

 


②時計製造業の近代化と町への貢献

(画像引用:ブティックHP

ランゲ氏が行った世界初の試みといえば、最も有名なもので「メートル法」というキーワードが絡んできます。
メートル法を簡潔に言うと、長さはメートル、質量はキログラム、時間は秒を基本とする十進法の度量衡の単位の体系を指し、それまで使用されていたフランスの単位(リーニュ)をメートル法で換算して製造に用いることを行いました。
また、当時は一貫製造が主流の時代でしたが、ランゲ氏は作業の分担制度を導入。時計技師それぞれの専門分野が特定の工程を担当することで、品質の向上はもちろんですが、不良品の製造率を大幅に下げることにもつながりました。

ランゲ氏は時計製造業を主な活動としておりますが、それと同時に工房があるグラスヒュッテの町長も務めておりました。ランゲ氏が提案した時計製造業による街の活性化は、彼が行ってきた開発や導入により成功をおさめ、ランゲ氏の工房を中心とした時計産業地帯へと生まれ変わりました。
そういった功績があるにも関わらず、ランゲ氏は町長の仕事を無償で行い、時計産業を通じて町の人々に豊かな生活を提供していきました。後に国会議員へ選出され、名誉市民の称号も与えられるほどの人格者として国王からもその行いが認められるほどの存在となりました。

1868年になると、ランゲ氏の実子であるリヒャルト・ランゲ氏が経営に加わり、【A.ランゲ・ドレスデン】から現在のブランド名である【A.ランゲ&ゾーネ】に変更。
お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、リヒャルト・ランゲといえば、今なおランゲ&ゾーネが扱っているファミリーモデルの1つです。ランゲ&ゾーネが得意とするスマートで優雅なドレスウォッチとして、世界中で愛されています。
そんなモデル名にも使用されているリヒャルト氏もまた、父とは別の角度で優秀な方でした。リヒャルト氏は時計技師でありながら科学者に近い存在でした。彼は生涯で27個もの特許を取得するほどの科学者であり、その中でも特に時計業界に大きく貢献したものが、ヒゲゼンマイの製法でした。

ヒゲゼンマイとは、時計の動力源であり心臓部でもあるなくてはならない存在です。このヒゲゼンマイは素材や形状、太さといったゼンマイの種類によっては歩度(時計の進みや遅れの度合い。1日ごとに時計がズレる時間を日差という)が分単位で変わってしまい、正確な時を刻むことが出来なくなってしまいます。
ヒゲゼンマイの製造は時計の工程の中でも最も難しい工程の1つであり、精密さも桁外れです。このヒゲゼンマイを内製出来るマニュファクチュールは世界でもほんの僅かであり、ランゲ&ゾーネはそのうちの数少ない1社です。

リヒャルト氏は、そのヒゲゼンマイに着目し研究を続け、見事に特許を獲得。内容は、ヒゲゼンマイに使われる合金にベリリウムを加えるという内容でした。ベリリウムは合金の硬化剤として用いられており、温度変化と磁場の影響を受けにくくする性質を持ち、さらには弾性(変形した物体が元の戻ろうとすること)も向上するという、時計の動力源としてはまさに最適な素材でした。
現代の最先端技術を詰め込んだ時計でも、磁場の強いところに時計を近づけると壊れてしまうため、当時の技術では恐らく磁場はかなりシビアな問題だったでしょう。リヒャルト氏は科学者としての知識を時計技師の1つの強みとして活かしたことが最大の功績となり、この技術によって作られるヒゲゼンマイは現在でも高品質な機械式時計のほとんどで使用されています。

そんなリヒャルト氏が経営に参加した3年後の1871年、今度は次男のエミール氏が経営に参加。内製で開発や時計技師としてランゲ&ゾーネを中から支えるリヒャルト氏に対し、エミール氏の強みは優れた商才と美的センスでした。
エミール氏は富裕層や時計を愛する、いわゆる時計愛好家と呼ばれる方たちがどういった時計を欲しているか、または求めているのかを的確に見極めるという鋭い感性を持っていました。抜群のセンスで経営手腕を発揮していき、翌年にはランゲ氏たちの住居と工房を兼ねた新社屋が完成。
後にこの建物は世界のランゲ&ゾーネの本社と呼ばれるようになり、ランゲ&ゾーネの歴史に残る社屋となりました。

 


③創業者の死を乗り越え迎えた最盛期と、予期せぬ結末

(画像引用:germanwatch

新社屋が完成し、まもなく創業30周年を目前に控えていた1875年。
創業者であり、リヒャルト氏とエミール氏の父でもあるランゲ氏が、60歳という若さで死去。悲しみに暮れる中、2人の息子たちは世界中に知れ渡った名門企業を存続させるため、ランゲ氏の時計への情熱を絶やさぬため、様々な思いと共に引き継ぐこととなりました。
父親譲りの時計技師と科学知識を持ったリヒャルト氏と、卓越した美的センスと商才を振るうエミール氏。内外へ向けた様々な力を併せ持つ2人はまさに最高の組み合わせであり、唯一無二なパートナーでした。

当時のドイツは普仏戦争でフランスに勝利し、第2次産業革命の時代でもあったため、ヨーロッパを代表する工業国の代表となっていました。追い風も吹くドイツで、ランゲ&ゾーネは数々の懐中時計を製造し、クロノメーター懐中時計や、ランゲ&ゾーネ初となる自動巻き式の懐中時計、通称【パーペチュアル】を制作。
1898年には、時の皇帝であるヴィルヘルム二世がスルタン・アブドゥル・ハミッド二世へ贅沢な装飾の施された懐中時計を贈呈する際に、ランゲ&ゾーネの時計を選出しました。この頃には各国の首相や王族、王室にもその名は知れ渡っており、1900年にはパリの万国博覧会でエミール氏が手掛けた「百年紀記念トゥールビヨン」を発表しました。

培ってきたノウハウを詰め込んだ巧妙な設計に、エミール氏の美的センスを更に詰め込んだイエローゴールド製ケース。その表蓋にはエナメル細密画が描かれており、その美しさは万国博覧会に来場した多くの人々を魅了しました。
エナメル細密画ではパリを背景にした女神を表しており、これは技術の進歩と職人の技がもたらした世界平和と勝利を象徴するシンボルとして描かれたそうです。
この懐中時計により、更なる知名度と世界的な名声を得ると共に、フランスから名誉ある勲章も授与されるほどにまで栄えました。

この頃のランゲ&ゾーネは、懐中時計一つの価値が高騰しており、現代でも多数のブランドで販売されている【グランド・コンプリケーション】という複雑な機構を3つ以上搭載している時計がございます。
当時の懐中時計でグランド・コンプリケーションのモデルをランゲ&ゾーネが製作すると、その価値が当時の価値で一軒家が2つ買えるほどの高値が付くほどの高騰ぶりを見せました。

更に、リヒャルト氏とエミール氏のときと同じく、1906年には新たにエミール氏の実子である3人の兄弟が経営に参加。ランゲ&ゾーネは世界中の人々から高い技術力と精度の高さで人気を博しましたが、第1次世界大戦や、ウォール街の悲劇を発端に世界的大不況による世界恐慌に見舞われました。特に時計メーカーに打撃を与えた世界恐慌においては、各メーカーが閉鎖に追い込まれる事態となり、ドイツ全体でも30%ほどの国民が職を失うこととなりました。
こうした厳しい状況下でも、高精度で高品質な実績と優れた製品のおかげで、ランゲ&ゾーネはピンチを乗り切ることが出来ましたが・・・

その終わりは、突如として訪れました。

1939年9月1日 第2次世界大戦が勃発。ドイツをはじめとしたヨーロッパ全土が戦火に包まれました。

 

次回、戦火に見舞われたランゲ&ゾーネの歩み。

投稿者プロフィール

小山 亮介
OKURA事業部、販促企画担当。
大学卒業後、接客業を経てOKURAへ入社。
youtuberの時計企画で時計の魅力に染まり、店舗在籍時は時計担当に従事。
好きなブランドはウブロ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ランゲ&ゾーネ、ロレックス
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